【「自明でないものは全て疑え」(ルネ・デカルト)~リスク論の核心】

                                                    <p><strong><font color="#ff0000" size="6">「自明でないものは全て疑え。」</font></strong></p>

「あらゆる命題に関して、

その論理を見直せ。」

 (ルネ・デカルト)

 

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フランス生まれの哲学者・自然哲学者(自然学者)・数学者。

合理主義哲学の祖であり、近世哲学の祖として知られる

ルネ・デカルト(仏: 1596年3月31日 - 1650年2月11日)

 

の初めて哲学書として出版した著作『方法序説』(1637年)

における形而上学的~「方法的懐疑」

〔幼児の時から無批判に受け入れてきた先入観を排除し、

真理に至るために、一旦全てのものをデカルトは疑う。〕

この方法的懐疑の特徴として、2点挙げられる。

1つ目は懐疑を抱く事に本人が意識的・仮定的である事

2つ目は一度でも惑いが生じたものならば、

すなわち少しでも疑わしければ、それを完全に排除する事である。

つまり、方法的懐疑とは、積極的懐疑の事である。

 

それを前提に「コギト・エルゴ・スム 」

〔方法的懐疑を経て、

肉体を含む全ての外的事物が懐疑にかけられ、

純化された精神だけが残り、デカルトは、

「私がこのように“全ては偽である”と考えている間、

その私自身はなにものかでなければならない」、

これだけは真であるといえる絶対確実なことを発見する。

これが「私は考える、ゆえに私はある」である。〕

 

***

 

私は、このデカルトの「方法的懐疑」〔積極的懐疑〕こそが、

あらゆるリスク論の核心的事項に思えて

仕方がないのですが。

 

特に政策的判断はもちろんのこと科学的判断

すらも曖昧&未知の領域においては、

(経験則に基づいた)「先入観」そのものが

最も危険な存在だと思う。

 

リスク論においては、

(最極としての「リスクゼロ」の考え方が最も邪道であることは

当然として)それとは対照的な「最悪な事態」の想定こそ

原子力運営はもちろんこと、その波及事象として

被曝問題に関しても、最も大切な捉え方だと思う。

 

ただ、科学が常にリスクと隣り合わせという宿命的問題を

加味するならば、人間と科学が共存する上において、

どこかで妥協点が存しなければならない。

しかし、その妥協点といえども、

A)「リスクゼロの想定」⇒「妥協点」

B)「最悪な事態の想定」⇒「妥協点」

 

何れの前提で捉えるかによって「妥協点」

の位置づけも全く異なったものに位置づけられると

思う。

 

特に、「1つの科学によって全ての科学&人類が消滅する」

という背理は、破滅的思考そのものと言っても過言ではなく、

それは、原子力等の高リスクを有する科学においては特に

当てはまり、仮に(最後の歯止めでもある)法規制すらも

緩やかなものであったとしたら、もはやその国家そのものが

悪魔的支配構造と言えるのではないでしょうか。

 

人類史上最大級の原発事故を生じた当事国が

当代の経済的便益のみを重視して原発事業を再稼動

するなど凶器の沙汰としか思えません。

 

 

【自民・安倍総裁、原発政策見直しに言及】*原発推進政策・再稼動

 

神に呪われ、他界後、自民党員全員が地獄の火に

焼かれるでしょう。

 

「天然ウランそのものが地獄の産物」である事を

知or不知を問わず利用する行為そのものが

神に対する反逆でもあり、一部実行全部責任として

全人類が裁かれるのも時間の問題となってきたようです。

 

【ピラミッド~5000年の嘘 (2010/仏) 】

【 20億年前、原子炉がアフリカに存在したという事実
~『古代核戦争説の是非』 】

 

【驚嘆すべき先史文明】

【世界に残る古代核戦争の痕跡 - 人類はかつて滅びたか】

 

「歴史を繰り返す」のが

神が人類に与えた試練&宿命なのでしょうかね?

 

被曝問題はもちろんのこと、

今日の日本という国家の体質&日本国民の国民性

そのものが恐ろしくてたまりません。

 

僅か百年の間に、広島&長崎の原爆に加え、

(史上最大級の)福島の原発事故の当事国になった

要因には、日本民族に対する神の裁きがマクロ的背景として

存しているように思えて仕方がありません。

穿った見方をすれば、ある意味、全人類の中でも、最も呪われた民族

とも言えるのかもしれません。

 

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「ユダは銀貨30枚でキリストを
ユダヤの大祭司長と長老たちに売り渡しました。
捕らえるべき人物が誰であるかを
示すためにユダはキリストに接吻します。」

⇒今日の日本において、誰が「ユダ」〔自民党員〕に相当するか、

誰が「ユダヤの大祭司長と長老たち」〔殺人集団IAEA〕に相当するか

一目瞭然。

 

 

PS

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デカルトは『哲学原理』(1644)において、

「私は考える」というラテン語の一人称活用 cogito に

非常に高い意味を与えました。

そして、彼が言うところの「普遍的疑念」から

自由になるために、

思考すなわち意識として「考えるもの」res cogitanceと、

延長をもつ身体としての res extensaを、

人間とりわけ「私があること」(=存在すること)の

出発点として位置づけました。

これがデカルト心身二元論とよばれるものです。

 

⇒究極的に言えば、各自の「存在」を前提にして

各自の「現世」は存するわけです。

これを突き詰めればナルシズムとも紙一重ですが、

「各自の魂」まで「現世の社会規範」に縛られる必要性&必然性も

存しないわけです。

人類共通としての「現世」の存在は別論としても、

各自の「存在」を抜きにして各自の「現世」はありえません。

せめて「各自の魂」くらいは完全解放するくらいの

心の余裕は欲しいものです。

それが、「かけがえのない唯一の人生」の真の趣旨。

それがリスク論の大前提ともなるわけですから。

 

また、それが真の意味での仏教上の『解脱(げだつ)』

という悟りの境地。

〔煩悩による繋縛から解き放たれて、

全ての執着を離れることで、迷いの苦悩の世界から

悟りの涅槃の世界へと脱出すること。〕

 

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「知識の光は

思想家を消耗させる。

真の天才は

心を解き放てるのだ。」

(「ゲーテの日記」)